有栖川宮幟仁親王






1.建学の精神

 本学園の母体である國學院大學は、明治15年に創立された皇典講究所をその前身としています。明治15年の開校式の日、初代総裁となられた有栖川宮幟仁親王は教職員・生徒に対し、告諭として『凡そ学問の道は本(モト)を立つるより大なるはなし。故に国体を講明して以て立国の基礎を鞏(カタ)くし、徳性を涵養して以て人生の本分を尽くすは百世易(カ)うべからざる典則なり。』と仰せられました。この趣旨は「学問は根本を明らかにすることが大切なのであるから、まず、建国以来受け継がれてきた日本固有の優れた文化・国民性をよく探求・認識し、それを生活に取り入れて人格を磨き、祖国の繁栄はもとより、広く世界の人類・文化のために寄与することこそ日本人として変わることなく目指さなければならない目標である。」ということで、これが時流を越え一貫して掲げ続けられてきた國學院大學の建学の理想であり、また本学園の建学の理想であります。
 今や世界文明の様相は刻々に変化進展しています。それを取り入れ、消化し、活用するためにも、この建学の精神はいよいよ必要不可欠のものとなっています。己を知ってこそはじめて他を識ることができるのです。
 元國學院大學長芳賀矢一博士作詞の校歌は、この精神を端的にうたい上げており、この建学の精神によって本学園の学問研究と人間教育は特色付けられているといえるでしょう。


2.國學院大學と栃木学園の沿革

(1)國學院大學の沿革

発祥の地
 國學院大學の歴史を振り返ってみると、明治15年東京飯田町(現在の千代田区飯田橋)に皇典講究所を創設したことに始まります。時代の進展に伴い教学の規模の拡充を図ることとなり、明治23年皇典講究所を母校として国史・国文・国法を攷究する男子3年制教育機関「國學院」を創立しました。明治37年専門学校令による専門学校に昇格、それを機に予科2年・本科3年の大学部と2年生の研究科を設置しました。
 明治39年には、「私立國學院大學」と改称しました。大正7年現在の東京渋谷の若木が丘に校地を求めて大規模な拡張計画に着手し、大正12年5月校舎が完成・移転しました。これに先立ち、大正9年大学令による大学に昇格しました。
 その後、昭和10年頃までは発展の一途にあって、校史の中でも一際光彩を放つ華やかな時代でした。
 第二次世界大戦後、GHQの神道指令により、経営母体である皇典講究所の解散を余儀なくされ、昭和21年財団法人國學院大學を設立しました。この時期はかつてない危機に見舞われましたが、関係者の努力によって建学の精神を堅持し学統を守りぬき、その苦難を乗り越えて新しい時代の大学へと生まれ変わったのです。

飯田橋 大学開講の地記念碑
昭和23年新学制度の文学部を開設、昭和26年には財団法人から学校法人に組織を変更しました。その後、法学部・経済学部・神道文化学部を加え更にそれぞれに大学院を設置して今日の総合大学の形態を整えました。研究機関として國學院大學日本文化研究所、教育機関として國學院短期大学・國學院高校・國學院大學久我山高校・同久我山中学校・國學院大學附属幼稚園・國學院幼稚園・國學院大學幼児教育専門学校を設置しています。平成16年11月に創立122周年を迎えた歴史と伝統を有する大学です。
 國學院大學栃木高等学校を昭和35年に設置しましたが、昭和38年学校法人國學院大學栃木学園が設立されて同校の経営をその新法人に移管しました。

(2)栃木学園の沿革

学園へのアプローチ
 昭和32年の初め頃より栃木県内の神社界で教育事業を興そうという気運が高まり、時を同じくして栃木市においても市内公立高校の収容力の絶対的不足から私立高校の誘致が緊急の課題となっていました。その後、関係者が相集い協議を重ねた結果、堅実な建学の精神を有し、かつ優れた伝統のある國學院大學の附属高校を誘致することで意見の一致を見ました。
 栃木市及び栃木県神社庁関係者が東京渋谷の國學院大學を初めて訪れ、栃木市に附属高校設置を要請したのは昭和34年6月でした。その後、三者の間で急速に話し合いが進展し更に設置条件が整い昭和34年9月30日に開かれた学校法人國學院大學理事会で、風光明媚な県立公園太平山山麓に附属高校設置を正式に決定したのです。
 昭和35年4月開校を目指して許可申請及び建設の準備が國學院大學において進められる一方、昭和34年11月2日栃木市入舟町の栃木市教育委員会教育長室に仮事務所を設置し開校の準備を開始しました。校地買収も順調に行われ、同年12月21日認可申請書を栃木県知事に提出、年明けの昭和35年1月11日から校舎敷地の整地作業に昼夜兼行で着手しました。次いで1月25日には同所で地鎮祭が執り行われ、校舎建築も急ピッチで進められました。開校まで2ヵ月余を残すのみとなりましたが、校舎建築の遅れを理由に県私学審議会は許可答申を保留していました。しかし、昭和35年3月30日委員の現地調査が行なわれ校舎等を計画どおり期日までに完成することの条件付きで許可の答申がなされ、同年4月11日付けで栃木県知事から許可が下りました。4月13日に第1回入学式を栃木市中央公民館(市庁舎西隣にあったが取毀され現在は駐車場となっている)において挙行、2日後の4月15日に平家建の旧南館(現在の新南館のある場所)が完成、授業を開始しました。その年の秋10月9日に本館が完成したことで校舎建築の総てが完了したのです。この本館校舎完成の日をもって本学園創立記念日と定め毎年この前日に創立記念奉告祭・式典を挙行しています。
 高等学校の順調な発展に伴い更に一層地域の実情に即した教育を目指して昭和38年3月11日、学校法人國學院大學の姉妹法人としての学校法人國學院大學栃木学園を設立し、高等学校の経営を継承しました。法人は独立したものの、建学の精神はいささかも変わることなく太平台に深く根ざし建学の理想を高揚、いよいよ発展の一途を辿ることとなりました。昭和39年には商業科を併設し、更に翌年の昭和40年3月25日栃木市片柳町にある二杉神社の協力を得て同神社境内地内に國學院大學栃木二杉幼稚園を設置しました。
 短期大学の開学は高等学校創立の時からの計画でしたが、新法人が設立され経営基盤が確立したことから本格的に具体化していきました。加えて栃木県及び栃木市当局・県神社界・教育界・父兄の間でも設置の要請が切実に寄せられていました。かかる状況の中で新法人設立後の昭和38年4月より準備をすすめ、昭和40年9月27日付けで文部省に設置認可申請書を提出しました。

特別教育館・中学校校舎・第2体育館
 設置学科は國學院大學の歴史と伝統を直接受け継ぐ国文科と、女子教育の尊重こそ建学の精神を高揚させるとの立場から家政科の2学科としました。同年11月18日大学設置審議会・同月21日私立大学審議会の現地調査を経て、昭和41年1月25日、栃木県下初の短期大学が認可され同年4月1日開学しました。更に、短期大学の充実を図るべく國學院大學が開学以来幾多の人材を世に送り出した業績を初等教育及び幼児教育にも及ぼそうということで昭和43年4月初等教育科を増設したのです。何れの学科もよくその趣旨が活かされ、地域は勿論、広く我が国教育界においても高い評価を得ています。我が国の高等教育への志向は昭和50年代に入って一層強くなり行政の指導及び地域社会からの要望は、大学の量的拡大と質的向上の両面から高等教育機関を整備することが急務となりました。そこで本学園としては、短期大学既設3学科に加え開設当初からの計画の範疇にあった國學院大學の学統を受け継ぐ日本史学科を昭和61年4月に開設、これを機会に既設科名を国文学科・家政学科・初等教育学科と改めました。更に平成2年4月には、豊かな教養を備え実業界に役立つ専門技術を身に付けた人材育成を目的として商学科を設置したことにより5学科となりました。
 更に平成16年4月より、21世紀の社会目標である男女共同参画社会に寄与すること、國學院大學との連携教育を強化することから男女共学となり、新しい教育への第一歩を踏み出しました。
 また、高等学校においては新しい時代に即応できる人材育成を目ざし商業科を発展的に国際情報科とすることとなり平成3年6月10日付で認可を得、平成4年4月開設しました。
 平成8年4月には学園創立時より総合学園の構想の中にあった少数精鋭の6か年中高一貫教育を行うべく中学校を設置しました。
 この地は、陸の松島と呼ばれ栃木市及び関東平野を一望のもとに眺められる風光明媚な県立公園太平山の山麓にあり、しかも学園をとりまく四季折々の自然は、常に清澄で短期大学・高等学校・中学校教育の場としてもっとも理想的です。
 本学園は創立以来継続的に施設・設備の拡充に意を注いできましたが、常に最高水準の教育環境を維持し、國學院大學の建学の精神顕現高揚に、役員・教員・職員が一体となって努め、地方における学府として発展の道を辿っています。
 平成12年、学園創立40周年を閲しましたが、この太平台の学び舎に今在る学生・生徒数は、短大生749名・高校生1,954名・中学生207名・園児174名であり、卒業生は、短大20,239名・高校28,126名・中学424名・幼稚園3,165名を数えます。
 これら卒業生は、本学園で学んだ建学の精神を卒業後も体現し、各界で活躍していることは周知のとおりです。


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